鳥尾小弥太というと、東洋哲学会、日本国教大道社、保守党中正派の結成に関わったり、大日本茶道学会の初代会長ということで、和というか仏教というか、なんだかお堅いイメージ(?)。ググるとよく出てくるのは、「国粋主義者」とか「反キリスト教勢力」とか…。確かに中年期から晩年にかけて反キリスト教姿勢を徹底していたのですが、でも鳥尾は実際、よく言われているようにそんな感情論でひた走る反キリスト教論者だったのでしょうか…。
というわけで、それに関してちょっとメモ。
特に注目すべきことは、信教の自由に反対していた鳥尾小弥太とナップの出会いです。鳥尾は伊藤博文が憲法の条文に信教の自由を入れようとしました時、条文に信教の自由の項目を書き込めば、長い伝統を持つ仏教と新参者のキリスト教を対等にしてしまうことになるので、それは許せないと激しく対立していました。鳥尾は仏教を基本としながら儒仏耶を同一次元で捉える見方をしておりましたが、反キリスト教の急先鋒に立っておりました。その鳥尾小弥太が、ナップと会って話し合い、その寛容な精神に心動かされ、変化したことです。このことは『慶応義塾大学部の誕生』の14頁にありますナップの手紙の中に記されております(注1)。鳥尾がナップと意気投合したということは、鳥尾が反キリスト教の旗を降ろしたことを意味します。これによって伊藤博文は憲法の条文に信教の自由を心置きなく盛り込むことが出来たのです。後に幸田露伴と共に、ユニテリアン主義の影響を受けた嵯峨の屋御室は、松村友視氏の研究によりますと、この鳥尾の影響でユニテリアン主義を受け容れ、彼も明治23年春に仏教を基盤として仏基の融合を唱えるのです。
日本のユニテリアンの盛衰の歴史を語る/土屋博政 (2005年4月1日同志社大学人文科学研究所においての講演)
ナップとは、米国ユニテリアン協会より派遣された宣教師アーサー・ナップ(Arthur Knapp)で、慶應義塾教員を勤めていました。
ここでも鳥尾は「反キリスト教の急先鋒」として書かれ、そしてナップにより「反キリスト教の旗を降ろした」とされています。でも降ろしていないことは、後の彼の経歴を見れば明白ですね(笑)。良いも悪いも、この鳥尾という人は、実際に会って話をすると考えを二転三転させるところがあるので、この時もそうだったのではないかと思います。むしろ彼の性格上、「信教の自由」は認めても、自分はやはりキリスト教にはなじめない、という想いを強くしただけだったんじゃないかなと。
このナップとの出会いより10年程のちに彼が書いた「花園日誌」には、彼がなぜキリスト教になじめないのが記されています。
我が耶蘇教を斥くるは、止むを得ぬ事あるなり。彼の宗旨にては、彼の神の外に、神を認むることなし。たとへて云はゝ"、一國に二王なきが如し。故に彼教を信ずる限りは、我國の神を、理非を言はず退け廃す。我國の神を廃する限りは、萬世一系の皇統不可犯の天皇を奉戴せず。即ち西洋の王家、其人民の其王家に對するよりも、其尊敬却て薄かるべし。何となれば、彼徒より見れば、異宗教の王家なり。甚しく言へば、邪宗教の帝王を戴くことゝとなるなればなり。況や是宗の蔓衍は、國民一致の徳を缺ぎ、支離滅裂支ふべからざるに至ること必定なり。
花園日誌 第二十四段
キリスト教(特にユニテリアン)は、ご存知の通り一神教であり、他の神を信ずることは禁じられています。天皇、とは、日本神代の神の子孫であり、神道の最高祭祀者でもあるため、キリスト教を容認した場合は、天皇を国家元首としていただく当時の明治日本の国家体系そのものを覆してしまうことになる、と鳥尾は考えていたようです。
私はこれを見たときに、「おぉ…納得…」と妙に感心した(笑)。全然感情論じゃないじゃない!と。鳥尾がキリスト教に反対していたのは、キリスト教が日本に広まり、最悪国教となってしまった場合に訪れる、この事態を危惧していたからなのです。
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昨今「今こそ真正保守!!」とか叫ばれているのを見るにつけ、歴女の私としては「そ、そろそろ鳥尾にもちょっとくらいスポット当たってもいいんじゃない…?」とワクワクドキドキしているのですが、早数年、そんな兆しもなく…。私自身もまだまだ勉強不足ですが、そろそろいい年ですし、自分なりに政治でもなんでも「自分の考えの軸」を持つことが大事だなぁと思うので、鳥尾をそこらへんのきっかけにしていきたいと思ってます。
しかし、明治創世記の男達は熱い…。世界の中の「日本」、「日本」とはなんぞや、「日本が日本たる」軸とは、とか、真剣に考え、「日本」という風土にあったシステムを作ろうとしていったその姿勢…熱い…熱いぜ…。以前、男達のYAMATOが流行ったとき、頭になんでも「男たちの」ってつけたらカッコいいみたいなこと言われていたけど、「男たちの明治維新」…うん…3割増しでなんかカッコいい気がする(笑)。